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ゲーデルの不完全性定理

難しい
ゲーデルの不完全性定理というのは、「真実であっても証明できない命題が存在する」ということだと思いますが、私がこの証明を理解するのは難しそうです。基礎からきっちり勉強するわけではなく、やる気の問題も大きいと思いますが、一般向けの啓蒙書を読んでも、なかなか先に進めません。そういう時に考えたことを書いておきます。

命題の構成
もし、「真である命題」というのが、公理と推論規則から導かれる定理や、具体的な事例があることを意味するなら、そのことが証明になるので、真実というのは、それだけではないということになります。まずは、真でありそうな命題を構成できるということから始まります。
命題のパターンとしては、「何々が存在する」か、「何々という関係かある」か、「何々できる」ぐらいだと思います。

定理の意味
「真実であっても証明できない」ということの意味は、真か偽かが定まっていて、証明が存在しないということか、証明が存在してもたどり着けないということだろうと思います。
証明が存在しないということは、その命題を真としても偽としても、矛盾が生じることはないということです。矛盾が生じれば、否定の証明が存在することになります。したがって、その真偽の影響は分離されていて、怖がる必要はなさそうです。ただし、それは、証明が存在しないことが分かっている命題の場合です。私は、ゲーデルの証明がそれを示すものなのかさえ理解していません。たぶん、通常はないに等しいと思うので、証明できていない命題であり続けるだけです。したがって、真でも偽でも影響はないということは当てにできません。

証明が存在してもたどり着けないということがあり得るのか分かりませんが、たとえば、「ある関係を成り立たせるものが存在しない」という命題なら、無限の対象に対して一つ一つ確認することしかできないということがあれば、証明不能と言えそうです。
「存在する」という命題が、無限の対象に対して、偶然の発見によってしか証明できないということがあるなら、「たどり着ける保証がない」ということは言えることになります。
存在することは証明されていて、具体的にそれがどれなのかは、無限の対象から偶然によってしか見つけ出せないということもあるかもしれません。

定義の場合
「真実であっても証明できない命題」ではなく、「定義できても、それについて真偽が定まらない命題」なら、普通のことだろうと思います。たとえば、ユークリッドの幾何学から平行線の公理を除いても、平行線を定義することはできるだろうと思います。しかし、それが存在するかどうかは決まっていないわけです。「一点を通る平行線が一つだけ存在する」というのは、それを公理に加えることで定まるわけです。
同じように、虚数も、その定義ができても、存在を証明できるわけではなく、そういう数が存在する世界のモデルを考えるだけです。
定義というのは、世界を特定したり、拡張していくものだと言えます。

いつか...
それでは、「真か偽であっても証明が存在しない命題が存在する」という命題の証明が理解できるようにもう少し努力してみようと思います。

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無黒点日数

無黒点日数

SWC 宇宙天気情報センター」 「宇宙天気ニュース(2009/4/3 08:47 更新)」のデータより

ちょっとした興味...

12予想(2)

主観的に、「無」は無なので、無の境地を「無」とするわけにはいきません。自己制御される状態として、有です。それは、自然的ゲームの中での自然的ゲームに対する一つの試みです。

すべてをある意味の「苦」とするとしても、「苦」は悪だと決まっているわけではありません。「苦」の世界を肯定できても構いません。自然的自由だけでも様々な可能性があり、様々に意味付けのゲームが繰り返されます。苦の中の闘争によって、現代のような科学文明を築くこともできています。

「苦」を否定的に意味づけるなら、すべてを幻として消し去ることも考えられます。死さえも幻であり、死によって苦が終わることはないとします。この場合、無の境地は唯一の目的です。その状態が死によっても変わらないためには、死によっても放棄されない超越的主体が必要になりそうです。しかし、その主体に自我があれば、それも幻だということになるかもしれません。とにかく、幻を自由に制御する能力がなければ、幻を消すことはできなさそうです。しかし、それほどの存在なら、苦を否定する動機は薄れそうです。もはや、その主体は、神だと言えます。幻を自由に操れるからこそ、消していることもできるわけです。

まさか、神になれるとは思いにくいので、初めから神を用意する必要がありそうです。神こそは、超越的主体だとすれば、無の境地も可能かもしれません。しかし、神自身には苦を否定する理由はなさそうです。

「無の境地」を方法として考えるなら、たぶん、あらかじめ与えられている自然的自由を束縛と捉え、超越的な選択の自由を望んでしまっているわけです。与えられているという立場は主体的とは言えません。しかし、そういう超越的主体というのは、やはり神的になってしまいそうです。そうすると、自分が神になることを考えるより、自己の超越的本質としての神を考えたほうが少しは可能性がありそうです。しかし、それを真の自己とするわけにはいかない気がします。小説の登場人物が、真の自分を小説の読者だと思っても、それ自体、作品中に書かれたことでしかありません。登場人物が真の自分を悟るより、読者が我に帰ればいいわけですが、そういう自我は存在しないとしたほうがおもしろそうです。

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